文章と色々で

何を書くかはわかりません

ブログもうすぐ作り直すかも

 

人を傷つけないように生きてきたが、それはできていなかった。

結果的にかなり他人に対して有害な人となってしまった。

 

思うにやはり幼少期の経験が今の私を作り上げてしまったのだ。

幼い私は家族の中で必死に居場所を見つけようとしていたのかもしれない。

 

幼い私は姉にいじめられ、クラスでも軽いいじめ、被害妄想にとらわれ、自分のやりたいことなどわからず、日々言われたことに従事していた。

親からは、少し無視されながら育った。寂しくてよく外出して道を歩いているときに、物陰に隠れて自分がいなくなったことに気づくか試していた。

本当に迷子になったときは死ぬほどつらかったから、絶対に迷子にならないようにスーパーの棚とか、親の行動とか、色々よく見るようになったと思う。

親から怒られたときによく拗ねて別の部屋に逃げ込んだ、ら、母親が心配して様子を見に来たことがあった。そのときの優しさが嬉しかった。だから何回も別室に行った。たまに家を飛び出して玄関先に裸足で棒立ちしていた。でも、少ししたら棒立ちに飽きちゃうし、自分が悪かった気がしてくるし、お腹は減るし、親は来てくれないし、だから、リビングに戻ることにした。そしたら家族はリビングでせんべいを食べながら笑点を見ていた。家族は私抜きでも普通に成立していた。後で、母親に幼いころの私のことを聞いたら「手のかからない子だった」と言われた。つまりいい子で育ってくれたということだから、嬉しいのだけど、今思うと少し寂しかったよ。

 

母親は、家のものが壊れていたり、汚れていたりしていたとき、よく私達3姉弟を一列に並べて犯人捜しをした。誰がやったのか、名乗り出るまで夕食を作ってくれない。何より、母親が怒っている姿が怖い。それなのに誰も名乗り出ない。仕方ないから「本当は私がやりました」って嘘をつく。そうしないと私がご飯を食べられないし、怖い時間が早く終わってほしかった。嘘をついた後に「なんでそんなことしたの!」とか「こういうことしちゃいけないでしょ!」みたいに叱られたと思うのだけど、その部分の記憶はほとんどない。あとになってあれは実は姉がやったことだったということが何回かあった。

 

小さい頃、私のニンテンドーのゲーム機が壊れたことがあった。画面が割れてしまった。泣いた。自分で割ったわけじゃなく、家の中で置いておいたはずのものが、割れていたのだ。誰がやったかわからなかった。その日はものすごく泣いたし、かなりの一大事だった。数日たってから、机に手紙が置かれていた。姉から「私が割っちゃったんだ。ごめんね。」って。いや、許せないよ。でも、こんなのされたら許さなきゃいけないじゃん。もう何日か経って落ち着いてきちゃってるのだし。親には内緒にしといて欲しいって書いてあった気がする。もう何から何までずるい。

 

姉に対しては、仲良く遊ぶか、向こうの怒りをぶつけられて私が泣くか、だった気がする。喧嘩はいつも負けていた。向こうのほうが勢いがあった。

弟に対しては、仲良く遊ぶか、こちらが怒って泣かせてしまうかだった。泣かせたあとは私がいつも怒られた。小学1年生のときに授業で詩を書くことになったが、たしかそのときに書くことがどうしても思いつかなくて「弟はクソだ。いっそ死ねばいい」という内容を書いた詩を提出した記憶がある。担任はどういう思いでこれを読んだのだろう。

一番上の姉は、親にとって初めての〇〇が多く、大切に扱われていた。一番下の弟は、一番下らしく家族全員から可愛がられた。私は真ん中で育ったから、親から直接愛された記憶が少ない。束縛されてつらいみたいなのはないが、私が感じる愛はいつも自由にさせてくれる愛だった(と思う)。父親に何か不満を言うと「じゃあ後で良いことがあるよ。」と言われたが、それはその場を流すだけの言葉だった。たとえ幸運で何かを手に入れたとしても、それはほしかった愛ではなかった。

 

 

みたいなこと言ってますけど、全然愛されなかったわけじゃないですよ私。

私の中学時代は珍しく勉強できる人たちとリア充グループが適度に重なる感じがあって、その中で私は男女のグループで楽しくやっていました。部活も3年間めいっぱいできたし、恋愛だってできました。好きな人とメールでやり取りして、一緒に学級委員やろうよと言って、一緒にやったりしちゃったし。教師ともいい関係でしたし、傍から見たら恵まれてますよ私は。だから別にいいんです。こっちで良いことあったから。家族は自由にやらせてくれた、それだけでもう十分なんです。