文章と色々で

何を書くかはわかりません

ならないと思います。

数日前?にネットで色んな人が自分の意見を言ってた記事。

note.mu

 

“これらの事を踏まえ、男性のモテの定義を「女性を性的に魅了できるか?」としたうえで、「男性のモテる人格」についての見解を述べれば「女性は暴力に性的な魅力を感じ、暴力的な人格を有する男性がモテる」ということになるだろう。”←ならないと思います。

 

一読して思ったのは次の6点。


※本来、こういったことは元の論文を読んでからすべきです。自分は英語を読むのがとても遅いし体力を使うためそこまで出来ないと思ったので当該記事を書いてる人の解釈だけしか読んでいない。すみません。僕が挙げてる疑問は元の論文読めば書いてあるかもしれない。僕ならこういった点が実際どうなのか考えながらソース読むと思います。

 

英語圏の恋愛研究の結果が日本でも当てはまる?
②いじめが直接性的魅力を感じさせるとは?
③ギャングの研究は「セックスパートナー数」の「報告」なので女性が暴力に性的な魅力を感じたかは不明では?
④テイルズオブレイプの「レビュー数」の割合で男女差があることは「嗜好の劇的な性差」を示すことになるのだろうか?
⑤レイプする/されるを男/女であると無自覚に前提していないだろうか?
⑥レイプする/される=男/女だとしてもテイルズオブレイプの鑑賞体験はどちらに自分を見出すかによって異なる。される側のほうがよりレビューを書きたくなってしまう体験である可能性は?

 

とりあえず即座に思ったのはこういったことだけど、言及しないのもアレなのでほかの研究にも言及はしておく。でもこれはかなり重箱の隅的感想だなと自分でも思う。
⑦実験のデザインによって「レイプファンタジーを持っていると報告」することもあると思う。「改めて言われてみればあるかも……」みたいな。
⑧動画を見てるからと言って実際にそれをされることを望んでるとも限らないと思う。

 

あと「できるか?」って定義はどういうことなんだろう?

 


はい。繰り返しますがこういった疑問をぶつけるのは元の論文を読んでからすべきです。読まずにやっている時点で私が思う「暴力」や「モテ」でやってしまっている。各々の論文で書かれている概念を投稿者が「暴力」や「モテ」という言葉に集約したのなら、それがどういった概念なのかをまず明らかにしないと、同じ話題について喋っているはずが各々が違う話をしていたという事態になる。

 

ただ、これは僕の思ったことですが、創作の受容と実際の体験は行為として別種のものだと思います。「女性がレイプされる」というAVを見る男性が女性に感情移入することは全然ありえることだと僕は思ってしまいます。逆もまたしかり。

 

さてここで突然ですがしばらくの間、上で書いた疑問を全て忘れます。そのうえで“「女性は暴力に性的な魅力を感じ、暴力的な人格を有する男性がモテる」ということ”が仮に「事実としてそうなっている」とします。





忘れました。OK、理解した。そのうえでもう一度「女性は暴力に性的な魅力を感じ、暴力的な人格を有する男性がモテる」という文章を見たときに僕が思ったのは「暴力に性的な魅力を感じ」るとはどういうことだろう?ということです。

 

たしかに「暴力的な人格を有する」ように見える「男性」が異性との恋愛もバリバリだなあと感じたことが過去僕にもあります。だから文章の後半部分は「そうかもしれないなあ」です。

 

ただ「暴力に性的な魅力を感じ」るという事態がわからない。男性がえいやそいやって殴り合いをしていると女性の心の男根が勃起するのでしょうか。男に殴られることそれ自体が女は気持ちいい?そうなの??なぜ????why?????
ワイジャパ(why japanese people)みたいに言うならワイウマ(why woman)状態。
ワイジャパという略称はこれで教わりました。

note.mu


「暴力に性的な魅力を感じ」るってどういうこと?暴力即トキメキ?なにそれ?それってどういうこと??

じゃあモテたいと思った人がこの記事を読んで、よし明日から「暴力」をしよう!ってなっても、なんかダメな気がする。例えばさ、僕が明日から自分のぬいぐるみを毎日たくさん叩き続けてもぬいぐるみがただ僕を見つめてくるだけでしょう。ちゃんネネ。相手に対して「暴力」を振るえば?でも明日から女性の友人にいきなり「ばか!」ってLINEを毎日送ってもダメでしょう。会うたびにビンタするようにしてもダメでしょう。同じ「暴力」なのに……

 

どんな「暴力」なのかわからない。「暴力」がどのような場面を作り「性的な魅力」に至るのでしょうか。こういったことを考えてるうちに1つ思い浮かびました。

 

 

僕は人が自分の心と身体を守るために暴力を使っていると感じることがあります。自分自身日常生活でストレスを溜めこんで心が荒んでいるときほど、イライラしがち(=周囲に攻撃的な感情を抱きがち)です。自分の心に余裕がないと、幼い子どもみたいに不快な感情に振り回されてしまう。

 

だからなのかわからないけど、暴力にはある種のいじらしさがある。その人の幼さが見えるときがある。どうにもならないがゆえの暴力に感情が揺さぶられることがある。

 

また暴力を振るう人が見せる独特の寂しさがある。暴力の裏には、その人の心の穴がある。心の穴を見せないために振るう暴力が、逆に心の穴の存在を際立たせる。

 

他人の心の穴が垣間見えたとき、それがその人の「本質」であるかのように錯覚してしまうことがある。コンプレックスの開陳は親密な関係を築くのに繋がることがある。

 

人の「本質」が見えると、その人のことを本当の意味で「理解した」気になってしまう。そして、その人のことを「愛おしい」と感じてしまうことがある。

 

 

これが「暴力に性的な魅力を感じ」ることなのかわからない――なんか違う気もする――けど、こう整理すると暴力的な人のことを好きになっちゃうということがわかるような気がしてくる。暴力の裏にその人の「本質」を見つけ、それを「理解した」気分を「愛おしく」感じる、この感覚を「好き」と呼ぶなら(同意するかは別として)「ふむ」と思う*1

 

もちろん、実際に暴力を受けた人からしたらこれは考えられない感覚であるかもしれない。「暴力」的な人のことが好きな人からしたら、別の感情のあり方に「好き」と名づけているのかもしれない。それはこの種の「好き」と違う「好き」であるということ、それだけです。

 

「暴力」的な人のことが魅力的に見える理由、ほかにもまだまだあるだろうなあ。

*1:思うと同時にでもこの種の「好き」から我慢大会始まりがちだよなあとも思った。